自分を見れているか
先日、ある方とお会いした。
その方は、鏡の法則的な角度で人の心を見ていた。
もちろん僕も見られていた。笑
僕自身の気づきは、「割り切る」ということ。
心理学用語では、「拒絶」というらしい。
これはこんなもの。
と勝手に物事を見切り、いいも悪いもそれ以上感じないよう努力していた。
これ以上、傷つきたくないから、嫌な思いをしたくないから
向き合わなくていいように考えていた。
それはそれで、悪いものでもない。
割と心地の良いものでもある。
しかし、進もうとすれば必ずその壁にぶち当たる。
それから、自己を分析し考察することとなった。
そして、僕は一つ決めた。
・ 部活の生徒たち
・ クラスの生徒たち
彼らに心で対話しよう。と。
すると気づいた。
この子達は心を閉ざしてる。
少なくとも、僕に心を開いていない。
全体の前で話すと、それはすぐに感じ取れた。
見える世界が一気に変わった。
それから、機会があることに一人一人と心の対話をするよう心がけた。
ある子は涙し、ある子は僕の変化に気づき、
ある子はそれでも変わらず・・・
いろんな反応に出会えた。
そこで気づいた。
彼らを責めてはいけない。
責めるのなら自分だと。
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ここで、彼らと向き合おうとすると、
彼らの悪いところがたくさん見えてくる。
そしてそれを正したくなる。
だけどそれは違う。
向き合うべき本当の課題は、
彼らを見て逃げようとする自分と向き合うことだ。
これを間違うと彼らを追い詰める。
そして、潰す。
なんてこともある。
そんなもの愛情じゃない。
なんなら、彼らのために頑張る自己愛だ。
そこじゃない。
自分だ。
〇〇と向き合うのではなく、
〇〇と対峙する自分と向き合う。
これに尽きると思う。
辛い、苦しい、逃げたい。
いろんな感情が湧いてくる。
この感情に、ニヤつけるようになったら本物なのか。
とも思ったりする。
彼らと向き合わない。
彼らとは対話し、彼らが自分と向き合えるようにアシストする。
それで十分だ。
慌てない。
つい、自分のいうことを聞かせたくなる。
分からせたくなる。
慌てるな。
彼らは僕をよく見ている。
慌てている姿も。
だから、落ち着こう。
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心で人を見るようになると、
その言葉が本心かどうかがよく見える。
恐ろしいくらいに。
逆にそういう見方をする方に、
表面上の言葉で取り繕っていることも
きっとバレていたんだろう。
恥ずかしいな。
けれど、今から直そう。
心で対話できるよう、頑張ろう。
修行だな。けれど、これで仙人の道に一歩近づけた予感。